「わかりやすい授業」が求められます。確かにモチベーションがあがり、興味を持ち、内容を飲み込むためには大変重要なことです。

ですが、この言葉が盛んに叫ばれ始めた、1990年代から、徐々に徐々に実際の生徒たちの学力は、ゆとり教育や年を取るほど昔を美化する習性の影響を考えても、やはり下がってきているように感じます。私は両者に明確なつながりがあると思います。特に大学受験や難関中受験ならいざしらず、高校受験や小学生の通常の学習でもわかりやすさが叫ばれてからは顕著に学力低下に影響していると思います。いわゆる「猿でもわかる」シリーズがヒットしたあたりからです。

ある学習塾を仮にP塾とします。勉強がどちらかというと苦手な層や部活生を対象に「わかりやすい授業」「定期対策に力を入れる」塾だとしましょう。P塾で今も要職にある教師が15年前に語った言葉が衝撃的でした。(もちろん両者とも非常に重要ですよ。)

英語のbe動詞の研修授業。表を黒板に書いて使い分けを教えます。

「私は」→am 「あなたは」→are それら以外→is

ここでストップが入ります。

「うちの生徒の多くはそもそも国語の指示語が分かっていない。それら、と言われてもピンとこない、「それら」って英単語はなんだっけ?それら以外って?と訳わからなくなる。だから私とあなた以外と書いてあげて」確かに筋は通っていますし研修授業のあり方としてテーマを「わかりやすい」に置いているわけですから間違ってはいません。

でも、私はそのとき思ったのです。そんなに中1にもなって指示語が出来ないでいいのだろうか?むしろこのレベルでできないとなるともはやアレルギーと言えるし、本気で言っているのだろうか?しかもこの先生は国語担当でもあるのに。それら以外って何以外かわかる?私とあなた以外だよね、と聞いて確認することで子供たちが賢くなるチャンスなのに勿体ない。」英語と指示語、どちらが先か?

また、ここでは、細かいところへの配慮ということで、「私は」はどれを使う?などと聞いたあと、「あなたの本」はどれを使う?などと聞くなどして、細かいところへ気を配ること、代名詞はどうやら助詞が大事らしいことを注意するチャンスなのですが、それも、「その日のうちにyour bookとか言われたら、2語だから面食らうでしょ。1語だけで聞いてあげて十分練習してから先で余裕があれば聞いて。」

こんなことを上げ出したら枚挙に暇がありません。結局、この塾でもそうですが、授業アンケートの「わかりやすいか」に大きな傾斜配点がついていて教師に「中学の勉強がさっぱりわからんという子を「わかりやすい」授業と徹底的な定期テスト対策補習で定期試験で得点させて塾のアピールとせよ、学力や高校に入ってどうなるとか、そういうものは考えなくてよろしい。難関高校合格は欲しいが、そういう子はほっておいてもできるからいいのだ。」という営業上の明確な方針でしたから、こうなるわけです。もちろん勝手に英語を変更して国語の指示語の授業をやれるわけはありません。

これでいいのでしょうか。その後の時代や生徒たちやその塾の様子を見ていると余計に強く感じる次第です。

わかりやすい、が「本質をついて」「問題へのアプローチ法も含めて自分で分かるきっかけや気づく問題演習があり」「体系的に整理されていて」「先生のペースや強調・メリハリが適切」で「頭に入りやすい」「日常生活の経験や既知のことと関連・印象づけた」「わかろうという気持ちを引き出し」「スモールステップへの分解の仕方が適切で」「字や声や黒板がわかりやすい」授業ならいいのですが、

わかりやすい、が「難しいところ・問題を完全にはしょり」「簡単にシンプル化して強引に覚え込ませ」「本来理解の差がつくところやミスのしやすいところは補助輪をつけて転ばないようにするか、はじめから転ぶから注意してと言い」「覚える量や基準点を下げてハードルを下げて」「ゆっくり丁寧に教えてその結果高校の授業についていけない子になってしまい」「言葉に対する感覚を養わないので、そもそも高校の内容がわかるわけがない」「体系的理解や知的な刺激を欠く」授業になってしまっているとしたら、トラジェディー(悲劇)です。

賢くするどころか、まるで薬漬けにするかのような有様です。簡単なことをより簡単に、という感じですね。

ある西日本有数の学習塾の幹部はまだ塾が小さかった頃から、「中学の指導内容を舐めるな。学問と思って、実は深いものだ、と知った上で教えよ。そのための研究を怠るな!」とよく教師に激を飛ばしていましたが、あの塾さんが伸びたのも無理からぬことです。

当塾は別に難関高校、難関大学を目指すわけではありませんが、高校に行っても困らない学力と大学受験を目指すときに万全のフォローができる塾を目指します。